2012年05月28日

伝承の形 【Ⅰ】

 薩摩の郷中教育の伝統を引き継ぎ今なお活動もしている「自彊学舎」の運営に関っている夫に同伴して、

理事長夫妻と、西南の役に敗れ最後の地を故郷で迎えようと、官軍の追手と戦いながら、

そしてかわしながら西郷軍が敗走した退路の一部を訪ねました。

この夏、舎が計画している「親子チャレンジ塾」の下調べの為でした。

私自身は西郷隆盛について、西南の役について、歴史の時間に教わった以外(それも忘れて曖昧)

詳しい事は殆ど知りません。

この事があとになって鹿児島県人として何とも恥ずかしいことであることと痛感することに・・・・・。

 先ず延岡市の北川町にある可愛(えの)嶽の麓「児玉熊四郎宅」へ。
伝承の形 【Ⅰ】

伝承の形 【Ⅰ】

伝承の形 【Ⅰ】

ここは最後の激戦地和田越の決戦に敗れた西郷軍の最後の本陣で最後の軍議が開かれ、全軍に解散布告が出され可愛嶽突囲が決定された所。

その可愛嶽突囲に残った薩軍の兵士は総勢約600名。

宮崎県の県指定史跡として保存されています。

係り員の方の親切丁寧な説明に耳を傾けながら、国を相手に負け戦のなか薩軍がなぜ鹿児島まで

辿りつけたのか少しずつ解ってきました。

戦場と化した村々の惨状は筆舌につくせないほどだったでしょう。

7カ月もの長期戦を支えたことのひとつに名も無い一般民衆の存在があったとのこと。

そして、今もこの地では西郷はおろか、薩軍の悪口を語る人がいないとか。
(もちろん逆の地もあるでしょう)

西南の役を顕彰する石碑もあり、私の先入観?とは全く違っていました。

ここには外国のジャーナリストや俳人の水原秋櫻子なども訪れていました。
伝承の形 【Ⅰ】

道なき道の山岳逃避行は故郷鹿児島城山まで、半月近く続いたのでした。

軍靴ではなくワラジの装備の兵士もいたことでしょう。

今から135年前のことです。

初めて聞く、知る話に興奮にも似た気持ちで、今夜の宿泊地五ヶ瀬の「やまめの里」に向かいました。

ここでも身を乗り出して聞く話に巡り会いました。次の更新で。






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Posted by マーサ at 19:56│Comments(4)おでばい
この記事へのコメント
おはようございます。

初夏の五ヶ瀬の山中に おられるということで羨ましい限りです。

自彊学舎の活動は 人聞きで 存じ上げています。

郷中教育といい 先人の遺した業績を学ぶ機会といい 素晴らしいことだと思います。

幼い頃より、小学生の先生になりたいと漠然と思っていましたが 学生の時分は できない坊主の最たる者でしたので 夢物語と終わりました。

が、長ずるにつれ 人生教師になるなかれ 人の患いは好んで人の師になるにありという 古人の箴言に触れるにつけ つくづく 先生にならなくて良かったと思うようになりました。

なぜなら 子供は 教師を選ぶことが できないからです。

凡そ 人に教えるに足りない才の人間に ものを教わること程 苦痛に感じられることはないと思うからです。

新聞の投書欄を始め 様々な市井の方の半生記を読むにつけ 皆さん 恩師に対する感謝の念を綴られています。

僕は 幼い頃より その ひねくれた性分のせいか 先生との相性が良かった記憶がありません。

おそらく 何を考えているか分からない 気味の悪い生徒だったに違いありません。

しかし 異端であったからこそ 岡目八目で いられたのかもしれません。

人生の傍観者として。
Posted by イヤゴロウ at 2012年05月29日 08:24
 イヤゴロウさん、おはようございます~♪

いつものように物見遊山もいいのですが、今回はとても実入りの多い一泊二日でした。

と云っても私の知らない事がたくさん聞けただけのことです。

お会いした方々がとてもいい方ばかりで、先ず人からスタートしました!。

もの心ついてからのうん十年間のた~くさんある「隙間」のほんの一部が埋まった思いがして嬉しかったです。少し遅すぎましたが・・・・・。

他人が聞いたら「なんだ~」と思われるさもないことですよ。

 今また、郷中教育が静かにクローズアップされていますが、少子化と生活(教育)環境の変化で、舎の運営は大変なようです。

それに国の政策、法人化のことでここ数年忙しい様子でしたが、それも一段落しやっと落ち着いて来たようです。

私は舎のことにタッチしていないので「ようです」と表現することをお許しください。

 教師になりたかったこともおありなんですか~。

ホントはイヤゴロウさんの様なスタンスを保てる方が適していると思いますが・・・・・。

実は私も小学校の教師として赴任地まで決まっていました。

でもなる気持ちは毛頭なく、採用試験は受けてみよう、と云う不純な動機でした。

ならなくて正解、子供達が可哀そうだったでしょうから。

 小学校の5・6年の時のクラス会が未だに続いています。

その時の女先生はもうご高齢で出席はなさいませんが、

二年間厳しく優しく束ねて下さったことに、皆感謝しています。

来年の秋、由布院でのクラス会を計画中です。
Posted by マーサ at 2012年05月29日 09:39
つい先日 お亡くなりになった 三戸サツエさんを ご存知でしょうか?

宮崎県串間市の幸島の サルの研究をしていた方です。

三戸さんは 元は小学校の教員だったそうです。

昨日 天気も良かったので 志布志から日南まで海岸線をドライブしました。

途中、築島という 島の周りをビロウで囲まれた 可愛らしい島もありました。

築島には 小学校の分校もあったそうです。

三戸さんの人生は 串間に落ち着くまでは 波乱に満ちたものだったようです。

僕の同年代の教員志望の輩は 金八先生や熱中時代等の テレビドラマに影響を受けた者も 少なからずいました。

かたや 日教組の活動も盛んだったことから 灰谷健次郎に感化され 理想を求めて 教員になる者もいました。

そういう過程を 僕はいつも苦々しく眺めていました。

三戸さんが眺め続けた日向灘は 外海であるにも関わらず 波は穏やかで癒される思いでした。

串間より少し北に位置する南郷町では、戦時中 海軍の特攻隊である 人間魚雷 回天の訓練も行われていたそうです。

大好きな山頭火も眺めたであろう 太平洋を心ゆくまで 満喫して帰途につきました。
Posted by イヤゴロウ at 2012年05月29日 11:57
 TVのニュースで報じていましたので、それで知りました。

その程度でしたので早速ネットで調べました。素晴らしい研究をなさった方なのですね。

 山頭火をお好きなんですね。

今はクローズしてありませんが、友人の画廊で度々個展をするものでした。

素質はもちろん、生きていくうちに一枚一枚裃を脱いで素になっていった彼の生き様が詠ませた句だと思ったりしました。

 ブログと云う媒体?はお付き合いしているうちに、だんだんと人となりを炙りだすような気がします?。
Posted by マーサマーサ at 2012年05月29日 13:26
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