薩摩の郷中教育の伝統を引き継ぎ今なお活動もしている「自彊学舎」の運営に関っている夫に同伴して、
理事長夫妻と、西南の役に敗れ最後の地を故郷で迎えようと、官軍の追手と戦いながら、
そしてかわしながら西郷軍が敗走した退路の一部を訪ねました。
この夏、舎が計画している「親子チャレンジ塾」の下調べの為でした。
私自身は西郷隆盛について、西南の役について、歴史の時間に教わった以外(それも忘れて曖昧)
詳しい事は殆ど知りません。
この事があとになって鹿児島県人として何とも恥ずかしいことであることと痛感することに・・・・・。
先ず延岡市の北川町にある可愛(えの)嶽の麓「児玉熊四郎宅」へ。
ここは最後の激戦地和田越の決戦に敗れた西郷軍の最後の本陣で最後の軍議が開かれ、全軍に解散布告が出され可愛嶽突囲が決定された所。
その可愛嶽突囲に残った薩軍の兵士は総勢約600名。
宮崎県の県指定史跡として保存されています。
係り員の方の親切丁寧な説明に耳を傾けながら、国を相手に負け戦のなか薩軍がなぜ鹿児島まで
辿りつけたのか少しずつ解ってきました。
戦場と化した村々の惨状は筆舌につくせないほどだったでしょう。
7カ月もの長期戦を支えたことのひとつに名も無い一般民衆の存在があったとのこと。
そして、今もこの地では西郷はおろか、薩軍の悪口を語る人がいないとか。
(もちろん逆の地もあるでしょう)
西南の役を顕彰する石碑もあり、私の先入観?とは全く違っていました。
ここには外国のジャーナリストや俳人の水原秋櫻子なども訪れていました。
道なき道の山岳逃避行は故郷鹿児島城山まで、半月近く続いたのでした。
軍靴ではなくワラジの装備の兵士もいたことでしょう。
今から135年前のことです。
初めて聞く、知る話に興奮にも似た気持ちで、今夜の宿泊地五ヶ瀬の「やまめの里」に向かいました。
ここでも身を乗り出して聞く話に巡り会いました。次の更新で。